にくまれやく。


「憎まれ役って何かな」と考えていました



むかし
“器の大きい人だけができる、潔いこと”
と信じ、そう振舞っていた時期があるのですが
しばらく考え続けてみた結果
自己陶酔に過ぎなかったんだと
気づきました



「憎まれてもいい」
というのは自分が決めたことだから
自己責任ということで
OKかもしれないけれど

何も知らない相手は
(原因を作ったのがその人だったとしても)
辛かったり
苦しかったり
哀しかったり・・・
不快な思いをするわけです



それに
憎まれ役になるということは
言われた相手への「フォロー役」も必要なわけで

その役がいなければ
憎まれ役はただのイヤな人でしかなくて

つまり憎まれ役は
半人前ではないのかなぁ、と。




憎まれるというのは
エネルギー的にみても
穏やかでないものを背負うことになるし

いつか相手に
わかってもらえる日が来れば
まだ救われるだろうけれど

永久に知らないまま・・・というのも
考えられるわけで

ならばわざわざ憎まれなくたって
平和的に解決できる方法がある。





基本は対話。

話して伝わらないから
憎まれ役になるんだというなら

伝え方を工夫する必要が
あるんじゃないかな。





ところで
この記事を書いたのは3ヶ月前です

書き上がってもなんだか
心の中に違和感が残っていたため
公開しなかったのですが

その理由がようやくわかりました




憎まれ役なんて行為や言葉自体が
もう時代遅れなんですよね たぶん。


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